誰も否定されない世界
すべての意見が違う視点として受け入れられる世界
100人いる時に1人が残りの99人のために生きようとすることができる世界
正しいと思うものは人それぞれ
でも、自身が正しいと思うことを正しいと発信できる世界が欲しい
誰も否定されない世界
すべての意見が違う視点として受け入れられる世界
100人いる時に1人が残りの99人のために生きようとすることができる世界
正しいと思うものは人それぞれ
でも、自身が正しいと思うことを正しいと発信できる世界が欲しい
私は他の人がこれをやりたい!という熱量の高いものに対して、サポートすることが大好きだ。
その根幹にあるのは、自身が熱量を上げて取り組める社会貢献であったり他者貢献が思い浮かばないからなのだろうか、とも思う。
例えば、ゲームではやり込みたいし自身の何かが高まっていく感覚を実感できる作業は大好きだが、そこに他者貢献などが入る感じはない。
ただ、他者貢献することはとても好きであり、その形が思いつかないといった感覚だ。なので、方向性を定められて取り組める状態になると私はすごく強い。
ゲームのように熱量を注ぎ込んで他者貢献に取り組めるようになると、自分は化けるんじゃないかと思っている。そこをうまいこと繋げられないかな⋯。
この世界は、自分自身が作り出しているものではなかろうか。
なぜ人が、というか生物が生まれてきたかを考えると、納得出来る答えが出てこない。
例えば、宇宙の始まりはビッグバンと言われているが、それまでは本当に何も無かった、いわゆる無だったのだろうか。現時点で観測できるものがないだけで、実はそれより前から何なかは存在していたんじゃなかろうか。
例えば、現在あらゆるルールや定義されているものは、本当に合っているのだろうか。今私達が観測できる現象から算出しているだけではなかろうか。
私はこの世界が、個人が作り出した価値観とか認識で作られて、一人ひとり捉えている世界の構造が違うと思っている。むしろ、世界を観測しているのは私ひとりであとはモブキャラなのかもしれないという、いわゆるゲーム理論的な思想もある。
ようは、自分の考えている常識を正しくないのではないか?と仮定することは自由なのだ。それが正解かを決めるのは、自分自身でしかない。
Aという事象が発生してBと感じるかCと感じるかは、自身で選択できるということだ。社会が、宇宙が、こうだと言っても自身が違う考えを持つことは自由だ。
真の自由は思想出来ることであり、それが出来ないところから自由ではないと感じる人生が生まれるのだ。
私は群れるのが嫌いだ。
なぜ嫌いなのか、と言われるとそれはわからないが、うわべっ面だけの関係性みたいなのに嫌悪感があるのだろう。
自分がこれまで真に他人から理解されていることはない、というもはやキモいくらいの自負心があるからこそ、それを隠して他者に迎合して右にならえで考えを合わせることが嫌いだ。
真の繋がりは好きだが、それって中々出来るもんじゃない。まあ端から見たら、真の繋がりも群れているように見えるのかもしれないが。
むしろ、1人で考えを持っていることこそが偉いという価値観も持っている。
横に並んで歩いたり集団でいるときだけイキっちゃう人、嫌い。
一方、1人で生きてきたということに誇りとプライドがある故に、誰かに心を委ねることが出来ない。
これは自分のこれまでの人生で固められた信念の1つだと思う。
人生は理不尽であること、他者を100%理解することは不可能であることなど、結構悲観的な捉え方がベースにある。
ただ、人間は社会性の動物だから、繋がりが無いと生きていけないし自分自身も繋がりが至る所にあるということは理解できる。それを、どこまで能動的に自身からやっていくか、ここがプライド、信念との葛藤になっているんだと思う。
繋がらなければ生きていけないが、繋がることを求めているわけではない、という⋯。ただ、自身の信念である1人で生きる的な価値観も間違っているんだろうかと思う時もあるので、それも葛藤の種である。
他人との繋がり方は、自分が考えているうわべっ面の繋がりだけでなく、実はもっと幅広い視点で捉えてもいいんじゃなかろうか。
例えば今みたいに文字で何かを表現することも結果的には繋がりだし(1人語りでもあるのだが)、そう考えると当たり前のことにとらわれない価値観さえ持っていれば、より快適に生きていけるんじゃなかろうか。
色々考えた結果、やっぱり群れるのは嫌いだ(笑)
最近とんでもないミスが発見されて、正直自身のメンタルが1日で大きく下がることがあった。
まあそれ自体は何とかなる、いや、大体のことは何とかなるのだが、何とかならない場合を想定して自己嫌悪になることがある。
人生なんて自分の捉え方次第とか思いながら、実際に失敗するとそれを引きずるのは、人生を理解したふりをして気取っているだけなのかもしれない。
そう考えると結構恥ずかしいものだ。
苦しまないことを望んでいるのに自ら苦しむ方向に心を強化しているような気がして、自身の信念はそっち方向に強いんだろうかと感じる今日このごろである。
今やっている自身の仕事に対して、一人になるとなぜこれをやっているのか、自身が本当にやりたいことは何かを考えてしまう時がある。
今は得られる情報が多くなって、ほかの選択肢も見える化されている。
だから他に何かやりたいことがあるんじゃないか?という視点でずっと最適解を探そうとしてしまう。
でも、自分のこれまでの環境や行動の結果が今の自分を作っていて、その自分が考える曖昧な変化への理想では、現状の生活を書き換えたいと願う臨場感が生まれない。
むしろこうやって考えることが趣味で、結果的に自己満足になっているとも感じてしまう。それがまた自己嫌悪になり⋯。
自分は信念を奪われた操り人形なんじゃないか?何に操られているかというと、これまでの社会が作り上げてきた世界の一部である、過去の自分というものである。
過去の自分は周囲の影響を受けているので、それすなわち社会が自分を操っているように感じてしまう。
自分の人生の操縦席にはいつだって座れるのに、オートパイロット機能があることをいいことに自分で操縦するのを放棄している。
どうありたいかを他者に見えるように宣言することが行動を変える方法として言われていたので、考えてみる。
自分がワクワクすることをする。
ワクワクすることとは?
変化すること。留まらないこと。
新しいことに出会うこと。
他者に新しい視点を伝えること。
人生について語り合うこと。
人生はちっぽけだと理解すること。
環境がどんなふうになっても心で考えていることが全てだということ。
見ている世界が自分自身を写す鏡だということ。
途中からズレた気がするけど、気にしない。思いついたことを書くのが自分のスタンスだったはず。
心が感じていることが全てなら、環境がどんなに劣悪だったり自身の望む環境でなかったり、逆に自分の望むことが全て叶っていたとしても、心が葛藤しているなら自分の判断基準は葛藤している自分になるわけだ。
その環境を変えたいと願っているのは、常に環境を変えたいと願うことが自分でプログラムされているということだ。
それをどう思うか?苦しいなら心を書き換えるべきだし、ワクワクするならそのまま突き進めばいいはずなんだ。
変えることは本来ワクワクすることのはずだ。でもそれが出来ずに苦しんでいるのは、反対に引っ張っている心の働きがあるはずだ。それが無意識の信念だ。
有意識の変化する欲望と無意識の変化したくない信念が引っ張り合って、無意識が常に勝利しているだけなのだ。
それが人間なのだ。
変化することはワクワクすることであり自身が望むことである、と言うことを理解する必要がある。変化を恐れる人間が変化を好むには、変化させたい部分すら本当に自分が望むところであることをセッティングしないといけない。
漠然と変化したい、では変わらない。
自分に忠実に、何が変化することでワクワクを生み出せるかのエサをぶら下げてあげないといけない。
そうしないと、1つの困難ですぐ挫折してしまう。
長くなったので、一回ここできり上げよう。